弟子入りして、覚える仕事は、人も磨かれます。修業をするとは、お金を払わず、貰わず、信じて仕えることです。いまどきはわずかながら小遣い程度は貰うようですが・・・・。私も大学出たての時、設計事務所で、毎日終電、月7万ほど頂いてました。怒られながら、「必死で働いて覚えろ。ドクターストップは俺がかけてやる。」といわれたものです。7年間休みは正月を含め年10日でした。板前、落語家、大工、左官・・・・・・・自然と修業を経験した人が周りにいます。修業を積めば少なからず、運、不運で仕事を語りません。理屈が先に出ません。世の中の理不尽さも修業で乗り越えられます。学校で教わる、哲学も、経済も、法律も世の中では無力です。バカができるかどうかのほうが大事です。理屈や自分の意見や悩みや不満など、語るときは修業を終えてからです。そうでないと人は聞き耳を立ててくれません。寄ってきません。「いつまで自分探しの旅を悩みながら続けるのですか?甘えるんじゃない。」伊集院静の言葉です。
娘も修業の5年間が終わったようです。よく頑張りました。素敵な大人になりました。師匠と患者さんが育ててくれたようです。でも意地になって泣きながら休みの日出続け、レポートを書き提出し続けた、娘を誇りに思います。医療に携わる人としての謙虚さに感心してます。先日贅沢して、娘とやま中で寿司を食べました。大将、握っている人、作業着に名前のある人、まだ名前がない若者・・・・・厳しく暖かく怒る職人、、必死で動き回る見習い・・・・・「お父さん見てて素敵やねー。おいしいはずよ。みんな理屈じゃなく修業してるもん。私あの若い人応援したい。」確かにカウンターの中のやり取りが微笑ましいのです。エラそうながら、見て感じることができるようになったとうれしく思いました。基礎の修業が終わった娘は、もう大人です。