かけがえのない人たち

長嶋、伊集院静、この二人は私にとってかけ替えのない人でした。 二人は立教野球部の先輩後輩でもあり、松井を育てたのも二人です。二人の存在は私にとって人生の指針でした。おふくろや、おやじ、祖父母・・・毎朝仏壇に手を合わせたとき、無償に親父、おふくろ、祖父母、叔父叔母に会いたくなる時があります。娘は皆の命日には必ず花を買い、好きだったものを買って仏壇に置きます。自分を愛してくれた人は忘れません。松井の弔辞のようになくなっても、ともに生きていってます。自分にかけがえのない人は,生きてようと亡くなろうとあまり関係ありません。さみしさだけは募ります。テレビでは盛んに長嶋の野球人生を報じます。私は伊集院静の本を再度読み返します。やはり魅力的です。わたしの大事な野球部仲間のポン友が闘病生活を送ってます。高校時代馬鹿ばかりやってましたがお互い爺さんになってもいなければいけないやつです。「死ぬなよ。」というと「あいよ。」といつもの口調です。」狭い無菌室にいることがつらいと言ってました。

休み

最近、休みが多い会社が好まれ、休みが少ないと敬遠されるようです。この休みとは何でしょう。会社に来なくていい時間ということでしょうか。そう考えると我々昭和世代は数合わせだけで、いてもいなくてもいい人たちとしか思いません。休みが多い会社はいい会社という考え方はどうも納得できず、仕事の内容、やりがいより、休みの多さと、入社時の給料の多さが魅力というのですから何を考えているのやら。休みというものは、一生懸命働き、体を休めてまた次の仕事を頑張るためのものです。できれば成果を上げてから充実感をもって休んでほしいものです。規則でもらう休みなど、大きなお世話と思ってました。働き方改革など、何のことやら。大の大人が人に指図されて休むなど怒りなさいと思いますが。一人前になるため、いい仕事ができるようになるため、休んでなんかいられるかと思える人であってほしいものです。家族サービス?なんじゃそれは。長期休暇?そんなもん何の充実感もなく、休みで疲れて、だらだら仕事をする人をたくさん見ました。悲しく残念な人たちです。子供のころ私の周りにいる大人は生活の中に仕事がありました。爺さんが生活には休みはない。と言ってました。

 

騒ぎすぎ、甘やかせすぎ

なぜこんなにコメで騒ぐのでしょう。コメ以上に物の値段が上がっても自分で対処しながら生きている人はたくさんいます。我々でいうと建築資材や、工賃はとんでもない値上がりです。コメ買うのに並んでいる人はイベントくらいに思ってる人も少なくないと思います。流通の仕組みや、補助金や、政治が絡み甘やかすことが多いと、悪さする人が現れ、政治が何とかしろと自分で努力しなくなります。選挙が近いと特に政治家はばらまきますから。マスコミも政治家も多少のコメの値段によってたかっている暇があったら、世界の紛争や、拉致や、核廃絶や大事なことに動いほしいものです。国民も政治に甘えてばかりで、辛抱や工夫や自己責任の意識がないようです。恥ずかしいという概念が欠落してしまった日本人は何の魅力もありません。 

6月

 もう6月です。今年は特別月日が早く過ぎます。明日から筑紫野の解体が始まります。百道浜は美装が終わり、完了です。多くの人と出会い、仕事ができてることがうれしい昨今です。コーディネーターが現場を仕切り、よく動いてます。もし私がいなくなっても十分一人でやっていけます。 今、水巻のクリニックの電気工事完了を確認に行ってます。いまから梅雨の大雨、夏の台風が心配な季節がやってくることがやや憂鬱です。ここの所二人ともよく動いて仕事ができてます。オーナーが喜んでいただくことが何よりうれしい時です。もうお客様と業者を超えてお互い大事な人になると人生を話す間柄になります。もちろん手作りの家ですから完璧はなく手直しもありますが、それがまた一つ上のデザインに代わることを目指します。どんどんずっと考えてた住宅屋に進んでいる実感があります。金儲けは相変わらず下手ですが、あまりあるすごいご入居者という財産があります。仲間がいます。

 

面白いこと

いつまでたっても男はがきです「なにかおもしろいことない?。」とか「面白い仕事やりたいなあ。」とか「面白い話聞かせろよ。」とか面白いことが大好きです。幸い、私はオーナーのおかげで面白い仕事をさせていただいているのに、「面白い家を建てたい。」と口にすることがあります。ガキの頃、悪さやいたずらが面白いことでした。服のまま海に入り石垣に竿を入れてウナギを取ったり、蛇を海に投げ入れて泳ぐ姿を見たり、いけすの中でいっぱいの魚と泳いだり、おふくろや大人から怒られることが面白いことでした。イカ釣り船に夜遅く3人で忍び込み、置いてある刺激的な本を見るのが何より面白いというか、ドキドキしてました。面白いことが仕事で実現できれば最高です。面白いことは妄想だけでも楽しめます。みんなで集まっていろんな話をすることがなくなりつつありますが、それをやらないと面白いことからは遠ざかります。最近の世の中の変革についていくことに精いっぱいです。いつまでも面白いことを追いかけたいと思います。今夜は数人の職人と食事です。おごらされます。

 

病院通い

 毎月この時期は病院通いが続きます。まずは左目です。検査の後、眼球注射です。次、皮膚科でおなかに注射を打ちます。次は右ひざと脊柱管狭窄症手術後の検査です。膝に注射です。次は肝臓の検査でCTです。血液検査はどこも行います。昨日は帯状疱疹の予防接種を水巻の先生にお願いしました。ご入居者の奥様も車に乗せて一緒に行きました。。薬は食事のように多く、覚えるのが大変ですが、朝、夕と飲んでます。高額ですが、娘曰く「これで元気に働けるのだからありがたいと思いなさい。」確かに。まだ、これから病気と闘うことになるでしょうが、積極的に病院に行くことで健康を維持できるようにしたいと考えてます。健康診断、予防接種、…家族にもコーディネーターにも口酸っぱく言います。

デジタルは嘘

最近のデジタルカメラは素人でもそれなりによく取れます。編集によりいろんな表情に変化させることもでき、詳しい人は楽しくデジカメで遊んでます。ただ我々は自分の作品をカメラに収める時、「自然」が一番大事です。編集されると偽物になってしまいます。数年前まではポジでの撮影でしたから安心してカメラマンに委ねてました。いい完成写真が取れて納得できる作品集が創れてました。デジタルになると、カメラマンの腕より編集者が主役になります。そして、絵のようでもあり、不自然な光になり、人間の目で見える陰影や深みが全て消えてしまいます。漫画のような出来栄えになります。悔しい思いをすることが多くなりました。プリクラのような面白さはしょせん嘘を編集し笑うわけです。ある意味キャド図面も機械に書いてもらい、ただ訂正が楽とか、機械に計算してもらえるとか、機械操作で作られたものです。自分の手で書いていくと、デザインを大事にし、一つ変更すると色んなところを訂正しないとデザインが崩れることを覚えます。自分の手で作り上げ、変更し確定させたデザインの家は、何年たっても、すぐ図面を起こせます。パソコンに保存するのではなく、自分な頭に保存されていくのです。手でデザインを作り、模型で検証し、人の目の完成写真を撮り作品集を作り、職人も含めかかわった全員で共有することが大事です。

 

郵便局と銀行

たまたまとは思いません。明らかに事務所の近くの小さい郵便局と銀行の支店では接客に大きな差があります。銀行はニーサなど投資推進会社になり、冷たいテープと間違えるほどの決まりきった言葉での接客です。まだマックのほうがましです。昼休みは窓口を閉め、窓口に行くには予約がいるようです。何様か。業務がこのように変わったと,はがき一枚よこし、自分たちの都合ばかりで、客のことは一切考えません。ご立派なことです。郵便局は個人だけでなく 局員皆で接客してくれます。カウンターから待合にまで出てきてくれてはなしをきいてくれることも少なくありません。ありがとうございましたも、気持ちいい笑顔でみんな立ち上がります。利子などの問題ではなく、わずかな銀行預金をすべて郵便局に変えました。人と人との商売が本来の姿です。銀行は自分たち都合で何もかも決めてはがきだして事後報告です。 どんどん銀行は嫌になります。 銀行窓口は現金を扱わなくなり、昼休みはシャッターが下ります。頭はいい人が多いのでしょうが、頭以上に必要なものがあります。 お客様のための仕事をしようとする気持ちです。また古臭い昭和理論を書きました。

 

 仕事馬鹿

今の人たちは我々とは比べ物にならないくらい頭がいいと思います。それはパソコンでの情報収集で多くの知識を身に着け、個人で多くの仕事ができます。仕事も遊びも機械から情報をもらい、機械を使ったユーチューバーなど子供のあこがれです。私の育った漁師町は、漁師馬鹿がたくさんいて、浜にみんな出ては、漁の話ばかりです。それは結婚式や葬式の時も酒を飲みながら漁の自慢話です。私が設計事務所に入社したときは、皆、建築馬鹿で大先生の作品についても評論しながら酒を酌み交わしてました。今はというと、そういう人は胡散臭いと思われ、パソコンで効率よく仕事を終わらせて、株をはじめとする投資に一生懸命になり、家に帰り家族サービス。何が損得かもすぐ調べるこできるのですから、パソコンやアイフォンは何より必需品です。ひとつの仕事に一生懸命になる仕事馬鹿は誉め言葉だった時代は終わり、一つの仕事しかできない人はダメな人になり、自分流の努力は効率が悪く機械に頼ることでたくさんのことに手を出せる時代のようです。人の個性が見えなくなり、どの仕事も60点程度で、十分という感覚のようです。上を目指すことはダサいことだといいます。ひとつしかできない仕事馬鹿は面白い人は多いと思いますが、皆貧乏であることも間違いありません。 子供は働く親の背中を見せて育てる時代も終わり、、自分の子供を○○ちゃん、○○君と猫なで声で優しく呼んで、げんこつもなく、ぐするとアイフォン渡している光景をよく見ます。子供も大人も機械で生きてます。

 

無駄な機能

 最近アイフォンを新しくしました。こんなものほとんどが必要ない機能です。それをたくさんつけて定価引き上げてます。電話、メール、写真で充分です。最近の車も複雑で乗るのが嫌になります。操作が複雑でまるで運転しながらパソコンをしてるようです。機械音痴の私にはストレスです。電化製品もコンピューター内蔵で、ボタン操作で料理ができたり、掃除も機械が動いてくれるし、洗濯や食器もボタンで洗ってくれます。おふくろの味は遠のき、家事から解放された主婦が、昼時の星のコーヒーやコメダ珈琲、スターバックスで長時間のランチとおしゃべりです。皆、機能が販売で重要だと思っているようですが、実は,ユーザーはデザインを見ています。その証拠に、機能などほとんどない生産初期のクラシックカーのかっこよさに心動かされ、高い金額で取引が行われているようです。家もマンションも新築の黒い箱のようなものより、築2,30年の素敵な家を探します。アメリカなどは,5,60年たったデザイン性の高い家を欲しがります。 デザインが苦手な日本ではそんな文化的な考えが欠落しています。最期に、自転車に乗っている人が安全運転の意識が薄く、我が道のように走っていることにはらだたしさをおぼえます。