彼らの言葉が話題になっています。「寿司屋の職人が十年も修行するのはばか。センスや才能がないだけ。」「今どきのいけてる寿司屋は、二年ぐらいの専門学校に行って開業したり、海外に店だして成功してる。」「機械を使おうと、なにしようとうまいものはうまい。」「長く修行させるのは店が安く若いもんをこきつかいたいから。」これに対し、賛同する人や、反対の人、様々です。経営やシステムやアイデアで商売する人もいれば、すし職人の技や知識、接客を磨き続けそれで商いという人もいるでしょう。できたものを食べ比べて圧倒的な味の差があるとは思いませんが、われわれは、修行を重ね、知識を習得し、技を磨き、研究をつづけお客様の前で堂々と握れる人、接客できるお店を「寿司屋」と呼んでいます。回転すしは「寿司屋」ではありません。「似て非なるもの。」です。回転すしでも大繁盛し、おいしいところもあるでしょう。でも私は寿司屋のカテゴリーに入れません。おいしい食料センター、おいしいファーストフードです。古市という社会学者も、彼独自の価値観があり、「赤ちゃんや、出産は汚いもの」「子供は別の個体」「ぬるま湯の日本は居心地がいい。」「スポーツにしろ難にしろ海外で活躍してる人たちをほめすぎ。」などと発言してるようです。二人とも高学歴で、知能指数も高く,弁もたちます。ただ、賢くないのでしょう。人としての奥深さに欠けてるのでしょう。それは修行をしてないからにほかなりません。わたしは二人とも大好きなんです。誰彼かまわず堂々と自分の考えを語るなど、そうできるものではありません。人は年を取り、人生の修業により奥深いところの物がちらほら見えてくると「最近の若いもんは。」といい始め、若い時のやんちゃと、間違いを自慢げに話し始めるのも事実です。きっと彼らもそうなります。二人は何となく、同じにおいを感じます。似てるようにも思います。同じにさえ見えます。そういうと彼らは反論します。似て非なるものといいたいようです。