デジタルが進むと言葉や文章に味がありません。気の利いた事を言おうものなら「セクハラ」「パワハラ」などという無味なカタカナ語で片づけられます。女は愛嬌とか「色気」がある女が少なくなったなーという会話はもはや、聞いた女性にとってはセクハラに値するらしく、「仕事もできないやつがプライベートなどと偉そうなこと言うな。」という注意はパワハラだそうです。「勉強もせず、好いた腫れたばかり、色気づきやがって・・・。」など言語道断。「どれだけ化粧してもバカは隠せんぞ。」「働かず、税金も払わず、そんな奴が偉そうに物申すな。」「青二才の分際で・・・・」真田丸のセリフ「黙れ小童(わっぱ)」などすべて問題があるようです。叱ることも、争うことも、話し合うことも、言葉が障害になるのなら人はすたれていきます。昭和は言葉が文化でした。歌を聴くと「歌詞」に魅せられたように感じます。最近はメロディーや踊りが主役で、がんばれとか負けるなとか直接的な応援歌詞、ばかりです。
私が息子の嫁を呼び捨てで呼ぶこと、「お前」と呼ぶことに驚かれます。私の祖父や親父もそうでしたから、私には当たり前のことなのですが・・・・。だって娘なのですから。二年前、わたしの嫁が十数時間の大手術した時、「元気でいるか、死ぬかはっきりしろ。中途半端が一番いかんぞ。」私なりの励ましです。ひどい、鬼、信じられん・・・・多くの批判をいただきました。笑っていたのは息子と娘でした。