この50年で失った、ゆったりした時間。

携帯電話、メールで通信、移動は、飛行機や、新幹線、とにかく、スピードが飛躍的に上がり、便利になったもの、失われたもの、さまざまあるでしょうが、ゆっくりした時間の中で、いろんなものが見え、感じ、旅を経験し、時を積み重ねて、大人になったと感じてます。車窓からの風景や、人や町が細部まで見えるゆっくりしたスピードはとても大事です。今は、ゲームのように、短時間でいろんなものを処理し、時が通りすぎてるだけのように感じます。結果がほしくて経過で学ぶことがなくなりました。おふくろの手で、季節の材料を、時間をかけてつくることで、匂いがしたり、湯気が出たり、下ごしらえから、味付け、片づけまで、それが食事でした。「チン」という音や、「素早く、手軽に、簡単に、」は褒められるものではなかったように思います。料理のうまい下手がはっきりわかる時代は、お金やぜいたく品ではなく、「工夫」に、評価がありました。魚の食べ方ひとつとっても、子供のころ食べたものがおふくろが動けなくなって、口にできません。今になって娘が「ばあちゃんに料理ならっとけばよかった。」と後悔してます。

住まいも今50年たって色あせず、味わい深い住まいに出合うことはごくわずかです。坪二十数万の低価格商品の家と呼べない家や、三か月で建つ家などという、恥ずべき広告で金儲けしてる住宅屋に、「文化のにおいのかけらもありません。」一度立ち止まり、「本物」を考える時期のようです。戦争を語り継ぐ人と同じように、戦後の昭和の文化も語る人が必要です。人が主役の、時代でした。

息子のブログに、香港ゼロ泊二日出張とありました。……ゆっくり、ゆっくり。

無題