伊集院静香がこのてのエッセイを書いてたのを読み、子供の頃の風景が思い出されました。国境に近い離島、対馬で、母と叔母は毎日5時半に起きて、店のシャッターを開け、朝帰りの漁師に売る惣菜を作るため、あわただしく、ガスに火をつけたり、水道の音が聞こえます。親父は船乗りで、朝六時に起きると浜に出て、天気と船を見に行きます。その浜ではイカ釣り漁師が奥さんも手伝いイカ割が行われ、海にワタ(内臓)を捨てるため、小魚がそれを食べによって来て、その小魚を子供たちが網ですくってました。その魚が朝飯の味噌汁に入ります。ばあちゃんは糠床から漬物を取り出し、着物の上に割烹着を羽織り、朝飯の準備です。爺さんは、目覚めのお茶を飲むと、ポマードで禿げ頭に櫛を入れ、朝飯を食って役場に50ccのバイク出勤でした。見送ったばあさんは玄関前の掃き掃除。昔の田舎は不便だからこそ、みんな、人間がなんだかの仕事をしてました。年よりは年寄りの仕事があり、いないと困る存在だったように思います。必死で働き、みんなで暮らすことが基本です。この国は機械にたより、便利になりすぎてあまり人を必要としなくなりました。何もしなくていいこと、それを裕福と勘違いしてたんです。、一族やコミュニティーいう財産を捨て、核家族になりました。便利な機械を買う金がなにより必要な世の中になり、人が暮らしにくく、やることがない貧乏な道を歩き続けることになりました。一握りの金持ちになることを目指すより、多くの家族を財産と考え、みんなで役割分担する暮らしが幸せです。仕事も会社も含め朝起きてやることがない人、何も考えなくていい人は幸せではないようです。たくさんの家族にいつも囲まれ、いつのときもその家族の役に立てる人生を歩み、みんなに見守られ死んでいくことが贅沢になりつつあります。一人ぼっちの金持ちが、ビジネスで経営されてる高級老人ホームで死んでいく事を成功者と呼んでる変な国ニッポン。わたしも含め考え直しましょう。