人生いろいろ、国もいろいろ

どんな人も差別せず平等に認めろといったり、これは許されるものではないだの、まあ、本業が二流の口うるさいコメンテーターや、マスコミばかりです。暴力は絶対ダメといいながら、お笑いでは頭をはたいたり、けったり、バンジー飛ばしたり、・・・・またどう考えても相撲のしきたりや稽古など、顔ははれ、血を流し、暴力以上だし、プロレスも怪しいもんだし・・・.職人の世界でも、師匠と弟子はこずかれたり、物投げられたり、日常です。われわれが小学校中学校では先生からびんたされるのはみな日常でした。セクハラにしても、森繫久弥や、津川雅彦あたりは、手当たりしだいさわりまくり、卑猥な言葉を投げかけていたといいます。それが好きな人もいやな人もいるんです。いろいろです。同じ人間でも国が変わると、イクメンなどという国もあれば一夫多妻になったり、喜び組みが存在したり、共産主義があったり、将軍様や、独裁者がいます。価値観はそれぞれです。どこで暮らすか、誰に教わるかは自分が決めればいいことです。スポーツにしてもいろんな教え方、仕組があってもいいと思います。豊かな国になったからいまは暴力は一切だめですとか言う理屈はアマちゃんの理論です。自分の価値観を確立できる大人を目指すことが大事です。

出張

2日ほど出張でした。東京では東京ミッドタウンのリッツカールトンにいきたかったので、夜立ち寄りました。さすがの空間とサービスです。東京という街はこれを受け入れる経済力と人口がいることを再確認です。アマン東京や、グランドハイアット・・・・・福岡ではまだまだこの文化は養いきれません。家具、人、味、備品・・・手を抜かないことが認められる手段です。いい刺激をいただきました。

時代遅れ

いつのときも、年を重ねたものは時代遅れといわれます。確かに技術はもちろん、その考え方、必要性、価値観がわからず段々口数が減ってきます。スマートフォンの機能さえよくわからず、使えないうちに、eスポーツ、自動運転、空飛ぶ車、・・・・。普段の生活でパソコンを使いこなせないわれわれは、いまでも、チケットや、ホテルなど、割高で購入するしかありません。からだは元気なのに、パソコンができないと、疎外感、迷惑感を感じます。図面や、スケッチを手で書いてるなんてなんて非効率なことをしてるんだという意見です。「わからない。」「できない。」という言葉や気持ちが多くなると、人は落ち込みます。できないもの同士で、時代を嘆きます。・・・・・勉強できない子供と同じです。

時代錯誤の私。

時代の価値観にあいません。『イクメン」などという軽い呼び名で、父親が育児、家事をするそうですが、私には理解できず、親父というものは、世のため人のために、汗水流すことで存在感を示すものだといまだに思っています。社会の担い手であるべきです。多くの人と係わり合うことで人的財産を手に入れるのです。パソコンを通してのやり取りなどでことが足りるのであれば、たいした仕事や用事ではありません。今からは葬式も仏壇も、お墓もパソコンの中の世界に変わり、親戚縁者が一斉にパソコンを開けば足を運ぶこともなく、法事ごとは終わるようです。われわれの仕事も顔を合わせず、契約書類にそれぞれの言い分を書き、契約書を交わせば自分の仕事だけして、お役目完了となってます。みんなで一つの完成形を見るなどという価値観はないようです。すし職人も、修行を積むことは無駄で、ホリエモンが作るすしの専門学校で、1,2年勉強すればそこそこうまいすしが握れ、独立できるようです。世の流れについていけません。

足場が取れて

K邸の足場が取れました。二週間ぶりに現場に行くと多くの職人がてきぱきと動いています。オーナーも「足場が取れると、きれいですね。」というお言葉。いつも思いますが足場が取れるといろんな職人さんも自分たちの仕事の形がわかり、仕事にいっそう意欲を見せ、質問や会話も多くなり、丁寧になります。100坪の美しい住まいを作ってきたというプライドがもてるのでしょう。工務店の社長や棟梁も元気いっぱいです。オーナーと外構屋と私で、庭、車庫、塀などの打ち合わせをして終了です。ものづくりの一番楽しいときです。

時代が違うとは?

監視社会になり、街中にカメラがたくさん設置され、車にもドライブレコーダー、何かを見つけて、動画配信、その動画を見てマスコミが騒ぎ、好き勝手な評論、週刊誌はしつこくターゲットを追い回し、いじめの対象を見つけてみんなでこきおろす・・・・・。「昔は許されても今はだめですよ。時代が違う。」・・・・カメラのない社会がいい社会のはずが、カメラ設置を推奨し、時代を語って頓珍漢なことをいう恥ずかしい社会です。機械は進化させられても、ひとが怠け、堕落しているのですからいい世の中になるはずはありません。人間教育してから機械を与えればいいものを、馬鹿に機械を与えたのですからこんなくだらない世になって当然です。時代が違うのではなく、明らかに、人が違います。教養もなく、働かずして、楽しくその日暮らしをのぞむ人ばかりです。

名をなのるのが礼儀

「名をなのれ」時代劇の言葉ですが、今この言葉が必要です。自分の名を隠し、すき放題のことを言ったり、書いたりしている人たちは認めるわけにはいきません。内部告発などということを匿名でやることをよしとする意見もありますが、名を名乗って言えない意見は認めません。自分の子供にどんな教育をするかです。自分の名は伏せて、いいたいこといいなさいではないはずです。自分の名を名乗って意見を発し、討論ができ、相手の意見を聞く耳ももてるとおもいます。人としてまず最初の教育は名前を呼ばれて「はい」と言う返事をしたり、「小澤幹文」です。とはっきり名前を言えるようになることだったはずです。この調子では将来名前もいらず、行政が作ったマイナンバーだけになるかもしれません

 

夏らしい風景

広島方面に行く機会があり、錦帯橋によりました。一昔前は「金鳥」のコマーシャルの撮影場所で、日本の夏を感じさせてくれました。木組みの橋の下の清流では多くの子供が泳ぎ、釣り人もいます。山の頂上には岩国城・・・・好きな風景です。夜は広島です。戦争、原爆、オバマ大統領など平和公園は世界が見ています。もともと私の祖父母は広島から対馬に移住したそうです。暑い暑い夏ですが、夏らしい風景を見ることができよかったと思います。その場所に身をおいて感じられるものがあります。

過去帳

お盆の用意をして迎えました。毎朝手を合わせることと違う気持ちで、仏様とゆっくり話しました。家族で過去帳を開き、次にここに書き込まれるのは順番からいうと自分だということに気づきました。そして私のあったこともないひいじいさんは杢太郎、じいちゃんは幹造,親父は健次郎・・・・・字を見て、『木」にかかわってます。木の家を建ててる今の仕事は自分にあってるのかもしれません。仕事の足跡もテレビで紹介されたときのビデオを見ました。自分で言うのもおかしいですがポリシーを曲げず、いい仕事を続けてきたと思えました。それは家族も感じてくれているようです。

物を売る、腕を売る

物を売ることが商いの基本ですが、私や、職人などは、自分の腕を買ってもらうことで生きてます。不安定な仕事です。家作りにおいてこの二つは敵対関係になることも少なくありません。床材、タイル、家具、照明、アクセサリー・・・などお客様が気に入ったものをなんとか売ろうとするお店と、多くの材料の調和、バランスで。空間を作ろうとする我々。この二つが協力できればいいものになります。売り手のわがままと作り手のわがままがぶつかることが大半です。売り手は商品を買ってもらえれば作ろうとする空間に興味はないし、作り手は作り手の理屈でわがままを言います。その二つの調整も我々の仕事です。大手プレハブメーカはそのわずらわしさをなくして、すべてを自社で提供し、何種類かのパターンをオーナーに選ばせるやり方を確立しました。家をものとして考え、物売りになったわけです。