最近ご入居者からのご相談を受けます。ガレージハウスや、耐震補強工事、サンルーム、ガゼボ、デッキ、・・・・・付け足しのようなものではなく、よりよいデザインで、「よりかっこよく。」作りたいというご希望です。「かっこよく」をかなえるための仕事ですからプレッシャーもありますが楽しくもあります。相談という行為が柔らかで争いがなく、理解しあえる、人にとって大事なものだと思います。お互い相手を思いやる前提で会話ができます。納得いく結論を導きだせます。これが役人や、銀行員、大きな会社は会社の決まりごとという盾をかざし、「どんなことも、決まりでできません。言うことはわかりますがそういう決まりなんで。」という会話に終始します。彼らは自己主張や自己判断も許してもらえない相談ができない人たちです。かわいそうに。コンプライアンスなどという横文字にごまかされ、自分が北朝鮮の人たちの理不尽な人権とおなじようにあつかわれていることに気がついていないようです。
糸島、宗像、三瀬
福岡市は東に宗像、西に糸島、南に三瀬、という自然あふれる魅力あるエリアにはさまれています。特に、今、糸島は大人気のようです。外国人観光客も多く、われわれの当たり前が魅力があるようです。道の駅も、宗像や、伊都彩彩など評判らしく、にぎわっていると聞きます。この際、もう一度、長期の街づくりの計画を考えてみるときだと思います。電車は北九州、唐津に向かうためのルートであり、人気のエリアには遠いところを走ります。便数の少ない西鉄バスだけ、昭和バスだけの公共交通はひどすぎます。三瀬など、まったくありません。行政の垣根をといて、JR,私鉄、そして船の広域計画が必要です。「魅力ある街づくり、自然との共存」をテーマに、福岡地区らしく、半分都会半分田舎らしい、やさしい建物、乗り物、食べ物を考えましょう。よそのまねではなく、福岡エリアだけのものを構築すべきです。
人情、根性、辛抱から理性、自由、権利の時代へ
時代の移り変わりはわれわれが信じて生きてきたものを、いとも簡単に覆します。「きつくても辛抱して、精進しなさい。」とわが子を送り出す親が普通でした。ころころ職を変えたり、簡単に休んだり、遊んだり、文句ばかりいう人は「不良」のレッテルが貼られていました。同じところで長く働く人をよしとしていた時代です。組織が何より強かった時代から、個が一番の時代になったようです。でも私から見える個は権利ばかり主張して甘えているようにしか見えません。根性や辛抱から人とのつながり、愛情、信頼、責任が生まれていたのも事実です。力がないうちに個の世界に投げ出されると、文句ばかりのつらい人生になるはずです。表面のパワハラ、セクハラ、暴言など、とやかく言う以前に、世の中のありようを討論すべきです。私の多くの恩人、友人、親族はこの世では謝罪しなければならないばきばきのパワハラ親父たちです。
人生いろいろ、国もいろいろ
どんな人も差別せず平等に認めろといったり、これは許されるものではないだの、まあ、本業が二流の口うるさいコメンテーターや、マスコミばかりです。暴力は絶対ダメといいながら、お笑いでは頭をはたいたり、けったり、バンジー飛ばしたり、・・・・またどう考えても相撲のしきたりや稽古など、顔ははれ、血を流し、暴力以上だし、プロレスも怪しいもんだし・・・.職人の世界でも、師匠と弟子はこずかれたり、物投げられたり、日常です。われわれが小学校中学校では先生からびんたされるのはみな日常でした。セクハラにしても、森繫久弥や、津川雅彦あたりは、手当たりしだいさわりまくり、卑猥な言葉を投げかけていたといいます。それが好きな人もいやな人もいるんです。いろいろです。同じ人間でも国が変わると、イクメンなどという国もあれば一夫多妻になったり、喜び組みが存在したり、共産主義があったり、将軍様や、独裁者がいます。価値観はそれぞれです。どこで暮らすか、誰に教わるかは自分が決めればいいことです。スポーツにしてもいろんな教え方、仕組があってもいいと思います。豊かな国になったからいまは暴力は一切だめですとか言う理屈はアマちゃんの理論です。自分の価値観を確立できる大人を目指すことが大事です。
出張
時代遅れ
いつのときも、年を重ねたものは時代遅れといわれます。確かに技術はもちろん、その考え方、必要性、価値観がわからず段々口数が減ってきます。スマートフォンの機能さえよくわからず、使えないうちに、eスポーツ、自動運転、空飛ぶ車、・・・・。普段の生活でパソコンを使いこなせないわれわれは、いまでも、チケットや、ホテルなど、割高で購入するしかありません。からだは元気なのに、パソコンができないと、疎外感、迷惑感を感じます。図面や、スケッチを手で書いてるなんてなんて非効率なことをしてるんだという意見です。「わからない。」「できない。」という言葉や気持ちが多くなると、人は落ち込みます。できないもの同士で、時代を嘆きます。・・・・・勉強できない子供と同じです。
時代錯誤の私。
時代の価値観にあいません。『イクメン」などという軽い呼び名で、父親が育児、家事をするそうですが、私には理解できず、親父というものは、世のため人のために、汗水流すことで存在感を示すものだといまだに思っています。社会の担い手であるべきです。多くの人と係わり合うことで人的財産を手に入れるのです。パソコンを通してのやり取りなどでことが足りるのであれば、たいした仕事や用事ではありません。今からは葬式も仏壇も、お墓もパソコンの中の世界に変わり、親戚縁者が一斉にパソコンを開けば足を運ぶこともなく、法事ごとは終わるようです。われわれの仕事も顔を合わせず、契約書類にそれぞれの言い分を書き、契約書を交わせば自分の仕事だけして、お役目完了となってます。みんなで一つの完成形を見るなどという価値観はないようです。すし職人も、修行を積むことは無駄で、ホリエモンが作るすしの専門学校で、1,2年勉強すればそこそこうまいすしが握れ、独立できるようです。世の流れについていけません。
足場が取れて
時代が違うとは?
監視社会になり、街中にカメラがたくさん設置され、車にもドライブレコーダー、何かを見つけて、動画配信、その動画を見てマスコミが騒ぎ、好き勝手な評論、週刊誌はしつこくターゲットを追い回し、いじめの対象を見つけてみんなでこきおろす・・・・・。「昔は許されても今はだめですよ。時代が違う。」・・・・カメラのない社会がいい社会のはずが、カメラ設置を推奨し、時代を語って頓珍漢なことをいう恥ずかしい社会です。機械は進化させられても、ひとが怠け、堕落しているのですからいい世の中になるはずはありません。人間教育してから機械を与えればいいものを、馬鹿に機械を与えたのですからこんなくだらない世になって当然です。時代が違うのではなく、明らかに、人が違います。教養もなく、働かずして、楽しくその日暮らしをのぞむ人ばかりです。
名をなのるのが礼儀
「名をなのれ」時代劇の言葉ですが、今この言葉が必要です。自分の名を隠し、すき放題のことを言ったり、書いたりしている人たちは認めるわけにはいきません。内部告発などということを匿名でやることをよしとする意見もありますが、名を名乗って言えない意見は認めません。自分の子供にどんな教育をするかです。自分の名は伏せて、いいたいこといいなさいではないはずです。自分の名を名乗って意見を発し、討論ができ、相手の意見を聞く耳ももてるとおもいます。人としてまず最初の教育は名前を呼ばれて「はい」と言う返事をしたり、「小澤幹文」です。とはっきり名前を言えるようになることだったはずです。この調子では将来名前もいらず、行政が作ったマイナンバーだけになるかもしれません