日馬富士が引退し相撲界がざわついています。ここでもみんな寄ってたかって倫理や制度や決まり事まで持ち出して言いたいこと言ってるようですが、当事者しかわからないことを詮索せず、そっと結論を待ちましょう。何を持って決めるかは「ファン」の喜ぶことです。以前プロ野球でイチローがピッチャーとして、松井がバッターという演出を、仰木監督がオールスターで行った際、野村のあんぽんたんが野球をなめとるとか言って松井に変えてピッチャーの高津を代打に送りました。我々野球ファンはがっかりしました。世の中それで騒いだ時、長嶋が一言「どっちが正しいかは簡単です。ファンが喜ぶことが正しいのです。」さすがです。仰木監督は男気にあふれ、ファンが喜ぶことを大事にし、野茂、イチロー、田口らを大リーグに送り、われわれに世界の野球を見せてくれました。野村はデーターとかちまちましたことばかりの野球をかたり、似合わないアルマーニを着せられ、サッチーとかいうおばはんの金ずるとして、また息子を優遇し、哀れなちいさい暗く地味な男です。とにかく「ファンが喜ぶこと」で裁く事です。
2017年11月の記事
大相撲
日馬富士の事件で、また寄ってたかってマスコミが程度が低い井戸端会議を電波で流し続けています。やるべきことがもっとあるだろうに・・・・・・。何の知識もないコメンテーターの意見など聞きたくもないのに。正論を振りかざす程、馬鹿がわかります。人と人との感情のぶつかり合いなど、他人が口をはさむべきでもありません。大人はいろんな感情やどうにもならんことを抱えて生きているのです。貴乃花が何もしゃべらないと、非難してますが、あなたたちは何でもかんでも適当にしゃべりすぎです。結論が出るまでそっとしておきましょう。すべての結論を知らせるのがマスコミです。感情は聞きたくありません。すべてをワイドショーのネタにし、飽きっぽく、自分勝手な論調には腹立たしさしかありません。キャスターは偉い仕事ではなく、真実を伝える仕事です。とにかくエラそうな輩が多すぎます。
都会と田舎の人の価値観
私の故郷は漁師町で、時化が続くと仕事ができず、沖に出ても不良の時も少なくありません。農業の人も、丹精込めた作物が台風や、大雨で台無しになることはよくテレビで見ます。自然が相手です。覚悟の上での仕事です。そんなことがあってもまた一から始める強さは都会人のサラリーマンは持ち合わせていません。同じ災害に見舞われた時、人としてどちらがたくましいかといえば田舎の人たちです。東日本大震災の時を思い返しても、あきらめるべきはあきらめ、自分たちのできることからコツコツはじめ、たくましい行動に驚きました。都会人は個人主義で、責任追及や保証や、文句や・・・・・たかだか停電や、ちょっとした雪で都市機能がマヒし、大騒ぎをするひ弱さ。お金のあるなしで対応が違うことにはなぜか寛容です。ひがみも込めて言うと、都会人は、金中心の価値観だけで生きています。自然と生きる知恵など何も持ち合わせず、地域のきずななど、言葉はわかってても、実感は持たないはずです。核やミサイル・・・・・どんなことも凛と受け止め覚悟が必要です。
ペットにしてもずいぶん考え方が違います。都会のペットは人間のために人間として服を着せられ、人工フードを食べさせられ、動物らしさを尊重しません。いなかは人と動物が共存しています。犬らしく、猫らしくより自然に。
二つの世界。
昔、我々が子供のころ、大人が大きな顔して、「お前たちも大人になったらわかる。俺たちは通ってきた道やけん、お前たちのことを思っていうてやりよると。」という理屈のもと、げんこつもろうたり、怒られたりしてました。確かに文化の発展はあっても、先人と同じ道を歩み続けていました。パソコン、アイフォンというとんでもないものを人は手に入れ、大きく生活が一変しました。我々が歩んだ道と違う道を子供や若者は歩んでます。価値観や接点もなく、まったく文化が違う二つの民族が同じ時代、同じ場所で生活を営んでるようなものです。社会も家庭の中も、我々世代の生きざまは参考にならないようで、古く、効率の悪く、我慢ばかりのさえない人生に見えるのでしょうか?機械を駆使する世の中への変革期です。人工知能をフルに発揮するようになると、人が汗水流し、鍛練し、人と討論し・・・・・・そういうことはなくなります。ゲームでの対戦が国民的スポーツになるのでしょうか?人間と機械で将棋や碁の対局をするということに何の意味があるのでしょう。人間の能力と機械の能力は比べるものではありません。機械が作るおにぎりと、おふくろが握るおにぎりは異質なものです。そんなこともこんがらがる世の中は異常です。しわが増え、老いていい顔になることも拒否し、気持ちの悪い若く見える爺さんやばあさんが増えています。機械が犯罪の温床にもなってます。人はあさはかです。
寅さんが人間だったのに。
後継者
昨日平田は佐世保での打ち合わせの後、11時過ぎに帰ってきました。お疲れ様です。彼女の能力の高さ、行動力、忍耐力は大したもので、彼女を上回る女どころか男もあったことがありません。毎度書くことですが、営業、インテリアコーディネート、部材発注、メンテ、事務、経理・・・・一人ですべてこなします。うちの娘も小さいころから平田を見てて、憧れであり、人間性も含め尊敬しています。私も年の割には動き回り、デザインにおいては手書きでコツコツながらも、パソコンを操る人よりはるかに速く、ご提案できてます。二人ですが内容的にはどこにも負けないスキルだと思います。わが社でもまれると力が着くと思いますが後継ぎはできません。いまどきは、お客さんと会わず、短時間労働、効率、週休二日・・・・・労働条件で働くところを決めるようです。時間がお金、・・・・・・頑張ってスキルを磨き、その後そのスキルで自分流の人生を歩むべきです。「修行なき社会」は大人がいなくなります。大人はいい加減で、うそをつき、でもやるときはやり、理不尽に耐え、何かを抱えて生き続け、お金よりもというより、お金がないから義理人情に走り、涙もろくなり、老いぼれていきます。大人がいない世の中は面白くないロボットみたいな世の中になるはずです。この仕事はエンドレスが、やりがいがある楽しく面白い仕事です。好きな人であれば、修行を積めばだれでもできます。
年を取って思うこと
ふとした瞬間、「この景色どこかで見た。」「これと同じこと以前あった。」「初めてのはずなのにここ来たことある。」などと思うことがよくあります。不思議でなりません。昔だれかに聞いたことや、見たものを勝手に自分の脳にインプットして映像として記憶してるのでしょうか?物忘れや記憶力の低下に苦しみながら、昔のことがよく思い出されます。子供のころの出来事のふとしたワンシーン、言葉などが蘇ります。その行動や、言葉に、魅力を感じることも少なくありません。昔おふくろがふと漏らした、「まっすぐな堂々と生きていけるだけのお金があれば、それ以上はいらん。それ以上に持つとろくなことはない。」船乗りのおやじが夜中出向の時はおふくろは、港に食料を持って見送り、ばあちゃんは仏壇に手を合わせ、じいちゃんは神棚に柏手を打ってました。みんな大事な人や物を自分なりに守ってました。叔母や、じいちゃんが病気で入院してるとき、病室に見舞おうとして、ドアの隙間から一人で、涙しているところを見ました。老いていきながら病と闘うことは過酷なのでしょう。そう遠くない私も今考えさせられます。祖父母、両親、叔父おば・・・・・・みんながいろんなことを今教えてくれてます。